ここ最近の熱い話題らしいです.この問題に対する私自身の立ち位置はまだ決めかねているところですが,今日は現在までにいろいろと思ったこと.
高校勉強は受験のための勉強か
最も議論を呼ぶテーマの一つです.
教育のひとつの目的は人を振り分ける「選別」にある。学校で得た知識が役に立つかどうかは、振り分ける社会の側にとっては、問題ではない。
・・・(中略)・・・
学校で得た知識が役に立つかどうかは、振り分ける社会の側にとっては、問題ではない。「こんなの意味がない!」といくら叫んでも、勉強する側の個人に意味があるのではなく、社会の方に意味があるのだ。「勉強しても役に立たない」と言ったところで、社会からは「役に立ちませんが、それが何か?」という返答が返ってくるだろう。
http://simple-u.jp/pd200403.html#2004-03-03
個人的には,少なくとも進学校での勉強は,受験のための勉強であると思います.勉強は受験勉強だけではない,世の中に出て必要な勉強もたくさんある,という主張をいくつも見ましたし,その意見は正しいと思います.しかし,それに反して高校で勉強するものの多くは,実際には,局所的にしか役に立たないものです.そのため,高校で習ったものの多くは役に立たないか,役に立つ頃には忘れてしまった,という場合がほとんどです.その程度の“必要なもの”であるならば,“必要になったときに勉強する”というスタンスでも十分に対応できますし,効率的であると思います.進学校の勉強には,やはり“受験に受かるための勉強”の性質がかなりの部分を占めているのだと思います.
ただ,一方で,その性質をあまりにも前に押し出すのはあまり良い選択ではありません.
ある人から、「もっと早くそのことに気がついていれば、ちゃんと勉強したのに」と感想をいただいた。気がつかなくても真面目に勉強したり、勉強しなくても頭が良くて成績が良い人を選別しているのだから、学校や教師は、選別のことを公言しない。ほとんどの教師は知っているし実践しているのだが、生徒たちに向かって「この中には何をやってもダメな奴が確率的に何人かいるので、それを振り分けるために勉強させてテストをしてみます」と公言する人はいない。
タテマエでは「みんな仲良く」「平等思想」を教え、その裏では選別を行っている。
http://simple-u.jp/pd200403.html#2004-03-04
教育には選別の役割も併せ持っていますが,そのことを公言してしまうと,バイアスがかかってしまいます(すでにバイアスはかなりかかっていると思うが).そういったバイアスをできるだけ排除するためには,もう一つの教育の目的である社会化を強調し,選別の役割には気づかせないようにする必要があります.その意味でも,高校の勉強は受験のための勉強だけではない,という事実は必要です.
この世の中に意味のないものはない。
- 本人が意味に気がついていない
- 世の中にとっては知らせないほうが好都合
このどちらかだろう。
http://simple-u.jp/pd200403.html#2004-03-03
自分に甘く他人に厳しく
さて,この話題に関してもう一つの気になった結果.
- 理解できない 56% 54012票
- 理解できる 36% 34746票
- どちらともいえない 10% 9180票
- 救済しなくてもいい 61% 35005票
- 救済すべき 36% 20884票
- わからない 4% 2258票
個人的には,こういったアンケートだと結果は半々かな,と思っていたのですが,予想に反してかなり厳しい結果が出ています.人々というのは,何と他人に厳しいのだろう,と常々実感します.果たして,今いきなり“過去数10年に遡って未履修問題は全て調査いたします”などと発表されたとしてもこの数字は変わらないのでしょうか?
政治家やら官僚やら、縁遠い人々ばかり攻撃しているのはおかしい、まず自分たちの生活から改めるべきだ、と私は思ってきた。どうして他人にばかり、息の詰まるような倫理的生活を押し付けられるのか、と。
・・・(中略)・・・
じつのところ私は、それがイケナイとは思わない。ただ不愉快でならないのは、そんな彼らの多くが、身近でない誰かさんの話題となると、途端に高潔な主張を振りかざすことである。彼らには重い責任がある? そうかい、自分は高校生として必ず学ぶべき教科すら知らなかったくせに! 知ってて、ズルしたまま卒業しようと思ってたヤツはなお悪い!
・・・(中略)・・・
「美しい国」は、生きづらい。他人を責めるばかりですむと思っていた人々には、この先も様々な「誤算」が待ち受けている。それでも人々が「美しい国」を目指すとき、私も認識を改めることになろう。
http://deztec.jp/design/06/10/26_society.html
身近な例を見ていても思いますが,多くの人々は自分に甘く他人に非常に厳しいです.あれだけ先生や学校側に対して不満のような批判を繰り返していたのに,いざ自分がミスをすると“まぁ,これ位仕方じゃないかwww”とか言い出したりします.なにそれ?これ位ってナニソレ.
“美しい国”は生きづらい,はなかなか興味深いフレーズです.多くの人々は,矛盾のない“平等な社会”を望んでいます.しかしながら,本当にそのような平等な社会が実現したとしても,必ずしも住みやすい社会では,恐らくはないのだろうと思います.
白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき
江戸時代,松平が老中だった頃の有名な和歌です.いつの時代も理想と現実のギャップは付きもののようです.
さて,世間はどこを妥協点とするのか?という問いは,現在非常に興味のある事柄です.もはや,“平等な解決策”を実現することは不可能に近いであろうと思います.そのまま未履修のある学生を留年にすると,その学生が不利になる.簡単な救済策を取ると,“真面目”に履修した他の学生と不平等となる.無理やり履修させると,今年の学生がこれまでの未履修のまま卒業できた学生と比べて著しい負担を強いられることになる,など.言い出せばきりがありません.世間はどこで線引きすることでこの問題を良しとするか,気になるところです.
参考URL