新年あけましておめでとうございます(遅)
「不誠実な作り話」は大嫌いなので、何の意味もないけど文句を垂れ流しておく。
実話として流通する嘘に大喜びする愚民:島国大和のド畜生
……(中略)……
承認欲求は誰だって欲しいから、作り話作るのは良いよ。発表するのも良いよ。
しかし、創作を事実だというのは、ダサいでしょうに。
それを喜ぶのはもっとダサいでしょうに。
あまり意識した事はなかったのですが,「実話」と言う要素は人々が感動するのに少なからぬ貢献を果たすようで,今も昔も「実話」と言うブランドを不正に利用する人が後を絶たないようです.2ch 系の感動話としては,「電車男」,「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」辺りが思い出されますが,いずれも創作の可能性が疑われおり,この点(創作を実話として発表した事)においての批判もしばしば見かけます.また,古くは「一杯のかけそば」と言う話も「創作」の指摘をきっかけとしてブームが収束していったと言う話があります.
作品の発表当時は感動話の代表作として瞬く間に日本中の話題をさらい、果ては作品叢書まで出来た。
一杯のかけそば - Wikipedia
……(中略)……
ブームの最中、5月19日「笑っていいとも」の中で司会のタモリが一杯のかけそばを批判した。タモリは「その当時、150円あったらインスタントラーメンが3個買えた」「涙のファシズム」など作品の胡散臭さを訴えた。この発言がきっかけとなり翌6月にはブームが終焉する。
創作を実話と偽ることについては,昨今問題になっている「テレビ等のやらせ問題」や 2ch まとめブログ等の「面白ければ事実かどうかはどうでもいい」と言う姿勢から生み出されている弊害を考えても,上記のような批判も一理あると言う気はします.
「創作と明言する」と言う話題については,「どのタイミングで創作であると明言するか」と言う事も気になります.例えば,2ch では「釣りスレ」と言う一番最後に創作である事を明言する方式をよく見かけますが,たとえ「釣りスレ」であっても最初から創作である事をカミングアウトしてしまうと読者のテンションが下がってしまい,反響を得られる事はほとんどないだろうと思います.その意味では,「創作の場合はあらかじめ創作と明言した上で話し始めなければならない」と言う立場と「創作と言う事を本文のどこかで明言すれば良い」と言う立場とでは,また少し事情が違ってきそうです.
読者のダブルスタンダード
ステマステマ騒いでる人が、作り話にコロコロ騙されてるんじゃないよ。本当に。
実話として流通する嘘に大喜びする愚民:島国大和のド畜生
携帯小説バカにしてる人が、同じレベルに喜んでるんじゃないよ。本当に。
もう一つの批判として,読者側のダブルスタンダード(普段はそういったチープな感動話を批判する割に,似たような話でつられて感動してしまう)が挙げられており,この点もよく批判の対象になります.この類の問題を端的に表した AA が下記でしょうか.確かに,「他人の事を散々バカにしてる割には当人も大して違いのないレベルだよなぁ」と感じる事例には多々遭遇します.
:____: :/_ノ ー、\: :/( ●) (●)。\: 恋空(笑) :/:::::: r(__人__) 、::::\: 恋人が死ぬ死ぬネタはもうあきたおw :| { l/⌒ヽ |: こんなので感動出来る単純な馬鹿女がうらやましいおw :\ / / /: ____ / \ / _ノ ヽ、_ \ / o゚⌒ ⌒゚o \ 恋人が死ぬなんて悲しいお 泣けるお・・・ | (__人__) | 大切なものがなんなのか教えられたお・・・ \ ` ⌒´ / CLANNADは人生だお・・
一方で,「バカにしている人達」と「似たようなコンテンツで感動している人達」が本当に一致しているのかどうかは判断の難しいところで,この点はあまり気にしても仕方がないかなと言う気もします.
追記 また,これに関連する話として,物語に共感するかどうかは「話の内容」はもちろんの事,(もしかしたらそれ以上に)「登場人物」に強く依存すると言う指摘もありました.
naoya どんな物語だって、読み手との間のコンテキストなしではその価値は決まらないってことですよね。同じような構造の話でも、コンテキスト次第で、嫌悪の対象になるか感動の対象になるかってことで。(※はてブコメント欄より引用)
ケータイ小説は「あいつらの物語」、2ch体験談は「俺たちの物語」
確かに,内容的にはほとんど同じような物語でも登場する人物の見た目,性格,バックグラウンドによって,読者の受ける印象は非常に異なるものになってくるので,「あいつらの物語」か「俺たちの物語」と言う違いなだけなのかもしれません.
「実話のような寓話」との接し方
最後に,本題とは少し外れますが「現実と虚構の区別がつかない人ほど社交性が高い」と言う指摘があります.
正しい判断力のある人間よりも、判断力のない人間の方が社交性が高い――。これは、メディアによる人間への影響を調査した結果と一致する。坂元章らによる「青少年と放送に関する調査研究報告書」(2002)によると、現実と虚構の区別がつかない人ほど社交性が高いという分析結果が出ている。ただしここでいう虚構とはテレビのことを指し、テレビゲームは含まない。テレビの影響を調べた結果、現実と区別のついていないほど社交性が高いことがわかった。テレビゲームの場合、現実と虚構の区別が出来るかどうかと社交性との間に関係はなかった。
・・・(中略)・・・
よくゲームにハマっていてコミュニケーション能力に欠ける人間に対し、「現実と虚構の区別がつかず云々」という批判がある。それに対して、言われた当人は、「現実と虚構の区別ぐらいついている!」と反論する。この反論は正しいし、おそらくゲームが現実ではないことぐらい知っているだろう。
本当の問題の根源は、「現実と虚構の区別がついていない」ことではなく、接触している「虚構」の側にある。現実と虚構の区別がついていなくても、虚構がその社会にとってふさわしいものであれば、問題ではない。例えば虚構が家族愛などを強調するテレビドラマであれば、現実と虚構の区別はついていないほうが良い。たとえ虚構であっても、多くの人が支持すれば、それは結果的にリアルである。
現実と虚構の区別は、出来すぎてしまうと困りものなのだ。冷静に現実と虚構を区別してもいけない。人は適度にメディアから欲望や価値観をコピーしないといけない。そうしなければ、周囲から取り残されてしまう。確固とした価値観や理念を持つことは、社交性の低下につながる。
現実と虚構の区別は出来きすぎてはいけない
人々は,多かれ少なかれドラマや映画と言った「寓話」から価値観や行動パターンをコピーして生きています.そのため,ある程度は寓話でもあってもリアルなお話として楽しめる人の方が,結果的に社交性が高くなる傾向があるようです.程度の問題もありますし「社交性が全てではない」と言う話もありますが,「踊る阿呆に見る阿呆,同じ阿呆なら踊らな損々」のような感じである程度は「寓話」にも感銘を受けられる事が必要とされるようです.