人は皆いつか死ぬが、少なくともそれは明日ではない

東日本大震災以降、原発問題の影響もあり「安全と安心」について、(この 2 つが異なる概念であると言う事が)語られる事が多くなりました。

安全は科学であり、データに基づき判断されるものであるけれど、安心は心の問題だ。安全であろうとなかろうと、人がそれをどのように判断するかの話である。

原発事故においては、安全かどうかさえ危うい。データの信頼性が揺らいでおり、判断基準に対するコンセンサスが得られていない。しかし、たとえ安全だと仮定しても、それで安心するかどうかは人それぞれだ。なぜ安心出来いのだと言って責められても、安心出来ないものは仕方ない。不安な気持ちに常に万人が納得する理由が付けられるわけではない。

逆に、安全で無くても安心を感じることはある。宗教や非科学的/エセ科学な商品に頼ってしまうのは人が科学ではなく心の安定を求めることの表れだろう。言うまでもないが、人々が安心しているからと言って、それが安全であるとは限らない。生肉などは多くの人は安心して食べていたろう。だが、それは必ずしも安全ではなかったことが証明された。

安全と安心 - Nothing ventured, nothing gained.

ただ、「安全と安心」問題は、それ以前においても(安全と安心は別概念と言う)認識自体こそあいまいな状態でしたが、これらの違いへの言及に当たるものは(時には肯定的に、時には否定的に)度々見受けられました。

例えば遺伝子組換作物については、ずいぶんていねいに試験が行われているにもかかわらず、「よくわからないから忌避しておこう」と考えている人が多い。そして「よくわからないけど気持ち悪い」という考え方を堂々と述べて、ほとんど誰も「そういう非科学的な態度は危険だ」といわない。「数十年間食べ続けた場合の臨床データがない」なんて、言い掛かりもいいところ。通常の交配による新種だって、意外な毒性を持つ危険はある。なのに、そっちは通常の安全試験で納得するのだから。

ゲーム脳問題:本当の敵はどこにいるのか

「安全と安心」問題を考える上で、ふと、知人から以下のような言葉を聞いたことを思い出しました。

人が、死への不安に押しつぶされずに日々の暮らしを送れるのは半ば無意識的に「人は皆いつか死ぬが、少なくともそれは明日ではない」と思っているから。

何故、「少なくとも明日は死なない」のような根拠の薄い事で不安が和らぐのか。この問いへの答えの一つに「今日まで生きてきたから」と言うものがあるような気がしました。「安心」できるかどうかは「その人本人が今日まで体験してきた事であるかどうか」が非常に大きな要因となると言うものです。

人は「自分が実際に体験してきた事(体験してきて大丈夫だった事)」に対しては、過剰に「安心」します。一方で、自分が体験した事のない物事に関しては、どんなに丁寧な説明をされたとしても過小評価を行います。百聞は一見にしかず、と言う事かもしれません。

しっかりと煮込んだ魚の皮や軟骨を鍋からお箸で取り出せば照明で「つやつや」と光り輝き、レポーターが箸を揺らせば「ぷるっぷる」に弾力感をこれでもかとアピールします。こうした視覚的情報が、もちもちした赤ちゃんのほっぺたや、若かりし頃の自分の肌に結びついてしまうのかもしれません。そうして精神状態にあるところに、もっともらしい科学的に見える説明が付け加えられると、強力な説得力を持ってストンとその人の印象に残るのではないでしょうか?

ぷるぷる呪術 - とらねこ日誌

「ニセ科学」と呼ばれる類のものが、しばしば、「科学的な説明」よりも信頼されてしまう原因の一つに「まず、その人の実体験に訴えるから」と言うものがあるのかなとも思いました。「科学的な説明(あるいは、科学的に見える説明)」は、「安心」と言う観点で考えると「実体験に由来する安心感(その人がもともと持っている安心感)への増幅装置」にしかならないと言うものです。

こう考えると、「これまでに誰も体験した事のない事例」に対して「安心」させるのは、なかなか難しいのだろうと思いました。