教育機関の存在理由

Web 上をうろうろしていたらなかなか面白い文章を発見したので少し引用(原文翻訳).

1990 年代にはほとんどだれもが、個人にとっても国家にとっても教育こそ経済的成功の鍵だと信じていた。例の「シンボル分析家」という高給職業につきたければ、大卒の学位、あるいは大学院の修士号や博士号さえ不可欠だった。

でも、シンボル分析は、コンピュータが非常に得意な分野だ。コンピュータが苦手なのはむしろ、現実世界のどろどろした部分だ。それに、シンボルはアスマラやラパスにすぐに送信できて、そこでボストンのほんの数分の一のコストで分析できちゃう。だから 21 世紀を下るにつれて、それまで学卒の学位が必要だった仕事はだんだん削減されて、残った仕事の多くは、世界文学を勉強していなくても、それなりに知的な人物であれば十分にこなせるものになった。

このトレンドは、1996 年にすら明らかだったはずだ。だって当時ですら、アメリカでいちばんの金持ちはビル・ゲイツだった。かれは大学のオチこぼれだった。どうやら世界最強の情報技術企業をつくるのには、正式な教育なんかあまりいらないらしい。

・・・(中略)・・・

多くの高等教育機関は、この厳しい環境下では生き残れなかった。有名な大学のほとんどはなんとか生き延びたけれど、でもその性格は変わり、昔の役割に復帰することになった。いまではハーバード大学のようなところは、19 世紀と同じで、学術研究の場というよりは社交の場となっている――裕福な家庭の子女が社会的な立ち居振る舞いを洗練させ、同じ階級の人々と親交を深める場だ。

誰かが,最近の(理系の)学部生は,みんな綺麗になって面白くない。昔は,もっと怪しい奴とかがたくさんいたのにーとか言っていましたが,この辺りに理由があるのかなぁと思いました.まる.