討論とは何か?

ここ数日、とある動画が話題になっていました。該当の動画を見ていて、討論のモデルとして面白いなと思ったので、今回はこの動画をもとに討論について検討してみます。

「討論」は「議論」か?

この記事を書こうと思ったきっかけは、上記の記事でした。「勝ち負け」の発生するものとしては「討論(ディベート)」が思い浮かびますが、一般的には討論は議論の一形態として位置づけられています。しかし、下記のように、他の種類の議論に比べて討論は性質がかなり異なるため、討論とそれ以外の議論は分けて考える事も多いようです。

議論には「討論」「議決」「対話」の三種類あり、それぞれに違ったルールがあります。そしてこのどれにも当てはまらないのは議論でも何でもない単なる言い争いです。見ている方は面白いかもしれませんが、有益な結論は出るはずもなく単にエネルギーの消耗で終わります。

…(中略)…

討論では勝ち負けがはっきりしますが、議決や対話では発言者に勝ち負けはありません。相手を言い負かすのが目的ではなく相手の意見を聞いて考えるのが目的なのです。だから「攻撃」「論破」「理論武装」というような戦いをイメージする言葉は討論以外では不適切です。

議決や対話は自分たちのためにするものですが、討論は審判(観客)のためにするものです。討論では、技術的(「相手のあの論理に穴があった」とか「ここはこう攻めるべきだった」という)な知見は得られても、その問題に関する理解はまったく深まりません。だから「○○について理解を深めたい」と討論会を開く時には自分たちで討論を始めてはいけません。識者に(時にはギャラを払って)来てもらって、自分たちは観客になるべきです。
というわけで、討論とそれ以外では性質がまったく違いますからここではこれ以上討論についての話はしません。以降「議論」という言葉を使う時には討論は含まないものとして考えて下さい。

議論の種類 - 議論のしかた

先の動画も、形式を整えて行っている訳ではないですが、ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論すると言う形を取っているため、(広義の)討論であると言えます。今回は、この討論に関してもう少し検討してみます。尚、討論以外の種類の議論については、上記の 議論のしかた が参考になります。

討論は誰に向けて主張(および反論)するのか?

討論において最も大きな誤解の一つとして、「相手を言い負かせる(やり込める)ために行っている」と言うものがあるように思います。先にも述べたように、討論において自分の主張を伝える相手は第3者(審判、観客)になります。そのため、討論を行っている人達は、確かに一見すると相手を言い負かせる事に注力しているように見えるのですが、実際はできるだけ第3者の賛同を得られるように動いていく(主張、および反論)必要があります。

ここ(誰に伝えるのか?)を間違えて、言葉通り「相手をやり込める」ための主張に全力を注ぐと、それは討論ではなく、殴り合いの喧嘩(口論)になってしまいます。特に、インターネット上では審判などが存在しない場合が普通で、この場合どちらかが改心するか死ぬまでの喧嘩になってしまい収集がつかなくなってしまいます。インターネット上でしばしば見られる「討論のようなもの」がうまくいかない原因の一つは、ここ(伝える相手を間違っている)に起因するだろうと考えられます。

もっとも、上記のような例は、公の場(インターネット上)で殴りあいの喧嘩をしていたらいつの間にか野次馬がたくさん集まってきてしまい、それらの野次馬の数人が勝手に「議論」、「討論」と言い始めただけで、当人達は最初から討論も議論もしているつもりなどない(ただ、喧嘩しているだけ)と言う例も多いような気はします。

討論の問題

b:id:RPM Webでおこなわれてるのは「議論」じゃなくて、ほとんどが「賛同レスポンスを一番集めたものが勝ちの独演会ゲーム」だよなぁ。だから定義をずらしたり、極論を言ったり、相手の弱点を突くのが定番戦法になる。

[B! 議論] 「勝ち負け」で計るようなものをそもそも議論と呼ぶのだろうか。: 不倒城

この問題に関しては、インターネット上で行われているものに限らず、しばしば討論の問題点として取り上げられているようです。

本論に入りましょう。まず二つの「ディベート」のうち、現在行われている《ディベ》の定義を挙げてみたいと思います。これは、まあ「ある特殊なルールに基づいた弁論のゲーム」というくらいに理解されてると思います。そのルールとは、「肯定側と否定側に分かれていること」、「ある論題proposition に関して議論していること」、「証拠evidence を使った議論であること」などでしょう。

このゲームの試合の中での目標・ゴールはこんなふうに考えられています。つまり《ディベ》のセオリーに従い「アーギュメント」を出して、それを「ドロップdrop」[反論のし落とし]しないで最後のスピーチまで「引っ張ることextention」。これらが現在の平均的な《ディベ》の試合の中での目標となっています。

そして、《ディベ》の勝敗の判定は、ドロップしないで残ったAD (ADvantage) とDA (DisAdvantage) を比べることで行われ、例外的にトピカリティtopicality といったセオリーで勝敗が決まることもある。このように、決まったセオリーに基づいて出された議論を、ドロップしないで、つまり忘れないで最後まで言及されたAD とDA を比べます。このとき、価値などの難しい比較などやってはだめで、分かりやすく死者の数を比べ合うことが要求されます。これなら、サッカーの得点が2 対0 だというくらい黒白はっきりして「客観的?」ですよね。皆さんの中にも、「試合では死者の数をできるだけ大きく見せるようにしろ」とか、教わった人もいるでしょう

価値ある〈ディベート〉そうでない《ディベート》(PDF)

討論には、勝ち負けが存在するため、どうしてもテクニック的なものが先行しがちになります。そのため、「討論では、技術的(「相手のあの論理に穴があった」とか「ここはこう攻めるべきだった」という)な知見は得られても、その問題に関する理解はまったく深まりません(議論の種類 - 議論のしかたより)」のような事もしばしば問題点として指摘されます。

ちなみに、先の動画を見たとき、ひろゆきさんはこのセオリーに忠実にしたがっているなぁと感じました。自分の主張に関しては最後まで論理を破綻させない程度の必要最低限の分だけ反論し、逆に相手の論理の破綻部分をうまく指摘して「死者の数をできるだけ大きく見せるように」心がけてい(るように見え)ます。勝間和代はディベーター 勝間和代 VS ひろゆき - 仮想私事の原理式 のブクマコメントに「ディベーター?はどちらかと言うとひろゆき」と書きましたが、それはここに起因します。

どの種類の議論を行っているか?

最後に、討論を離れて議論一般の面からの動画の感想です。個人的には、先の動画では、勝間さんが「どの種類の議論を行っているのか」を見失っていると言う印象を受けました。この印象は、2chはIPの開示に積極的であるというひろゆきさんの注目発言について- 勝間和代公式ブログ: 私的なことがらを記録しよう!! と言う後記を読んだ後により強くなりました。

最初に述べたように、議論にはいくつかの種類が存在し、それぞれに違った意味合いや規則が存在します。例えば、上記の後記では討論を行った本人が「何らかの知見を得られた」ような感想を記述していますが、それは討論の後記としてはあまり適切ではないように感じます。もし、後記に書かれているようにゲスト(ひろゆき)から何らかの有意義な知見を聞き出すことが目的であったならば、動画のような討論の形ではなく、勝間さんが質問(と本当に必要な場合のみいくつか反論)に徹する形の方が良かったように思いました。

この例のように、討論と対話をごちゃ混ぜにしたような議論と言うのはインターネット上においてもしばしば見られます。しかし、こういった形での議論は、目的を見失ってしまいうまくいかないだろうと言うのが率直な感想です。