歳月人を待たず

要約: 背水の陣 という言葉は「退路を切って必死に戦う」という意味ではない。実際には「天才は常識を逆手にとることが出来る」というような意味なので、天才でない限り真似をしてはいけない。

・・・(中略)・・・

この事から分かるように、韓信は「必死になる為」に「退路を切った」訳ではない。その意図も少しはあったであろうが、それがメインであったという訳では、ない。無論別働隊の奇襲が失敗する恐れはあり、その場合は韓信の軍は全滅していたであろうから、賭けではある。しかし、退路を切って必死になればなんとかなる、というような安い賭けではない。

天才は、このように常識を逆手にとり、あるいは常識を自らの理論で上回り、活路を拓くことが出来る。これが本来の「背水の陣」の意味であると思う。自らを天才であると自信をもって宣言出来ない限り、背水の陣を取るべきではないと思う。

逃げる為の道を潰してはいけない - tumblelog.ssig33.com

面白いお話でした.私は背水の陣の話の内容を知らないので上記の指摘が正しいのかどうかは分かりませんが,井ケイの戦い - Wikipedia にも同じような記述がありました.Wikipedia では,背水の陣に関して「これが単なる賭けではない点は、事前に間者を多く放ち情報収集していている所にも見ることが出来る。韓信が稀代の名将と言われる所以である。」と言う一文で締められており,実際に行われた背水の陣が「(闇雲に)必死になれば何とかなる」のようなただの精神論ではない事が強調されています.

歳月人を待たず

上記の記事を読んで思い出したのが,閉鎖の言葉 -歳月人を待たず- - Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々- と言う記事でした.

今考えているのが、「及時当勉励 歳月不待人」という陶淵明の古代中国の詩だ。時に及んでまさに勉励すべし 歳月人を待たず――。あまりにも有名なこの漢詩は、若い人に刻苦勉励をすすめる詩だと解釈しがちだ。私も小学校のときに教師からこの詩を教えられた。若いうちに勉強はしておくものだ、と。

陶淵明の気持ちとは逆

しかし陶淵明は勉強をすすめたわけではない。むしろどちらかといえばその逆で、楽しめるときに楽しんでおけ、と詩を詠んだのである。古代の中国と現代の日本では、勉強の意味が異なる。「努力して人生を楽しむ」という意味が勉強にはある。勉強とは学問に限らない。努めて楽しむことも勉強に含まれているのだ。

だから、「及時当勉励 歳月不待人」は、「今この時、楽しめる時は楽しんでおけ 時間というものは人を待ってはくれない」という意味に解釈するのが正しい。

閉鎖の言葉 -歳月人を待たず- - Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-

閉鎖の言葉 -歳月人を待たず- - Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々- では,「思い込みや先入観から物事を判断してしまいやすいという事実である。教師でさえ(いや、教師だからこそというべきか)、漢詩を自分勝手に常識的に解釈し、生徒に伝達してしまう。」と評していますが,思い込みに加えて「思い込んだ結果」が精神論的なもの(「とにかく頑張れ」とか)である場合には,この傾向が顕著になるような気がします.

故事成語などは特に,現代の常識では思いもよらないような事情・思考が含まれていたりします.そのため,実際に使用する際には注意しなければなぁと感じました.