何故「神は超えられる試練しか与えない」のか?

「神は超えられる試練しか与えない」と言う言葉を見ながら、「そりゃあ、超えられなかった人は死んでしまってもう存在しないもんなぁ」みたいな事を考えていたら、たまたま同じような事に言及している記事を見かけました。

「辛い経験は糧になる」という言葉が広く世間で言われているのは、基本的に、乗り越えられた人しか世間に出て来れないからなんだろう。私の中にも、乗り越えられた部分と乗り越えられていない部分があるが、乗り越えられた部分については、世間に向かって語れるけれど、乗り越えられていない部分については、なかなか世間に向かって語ることはできない。

世間から見えるのは、乗り越えた人だけ。結局トラウマにしかならなかった人は、世間からは見えないということだ。

http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110613/1307956620

私自身もいくつか「苦難」みたいなものに遭遇しましたが、そう言ったものはある程度自分の中でケリが付いて初めて言葉にしても良いかなと思えるようになるケースがほとんどで、「現在絶賛苦難中です!」みたいな感じで公にするのはかなりハードルの高い事です。

誰かがあなたに「A と B どっちが良いと思う?」と尋ねる場合、その多くはその人の中ではもうほとんど答えが決まっています。尋ねた人があなたに期待しているのは「あなたの意見」ではなく、「背中を押してくれるような一言」です。

誰かから聞いた処世術のお話の一節ですが、「苦難」や「悩み」のようなものは(よっぽど信頼の置かれている人意外には)解決して初めて他人に語られるようになります。そのため、外からはほとんどの苦難は解決できているように見えるのかもしれません。

人は現実から目を背けなければ生きていけない

そこで問題だ!このえぐられた足でどうやってあの攻撃をかわすか?
3択 - ひとつだけ選びなさい

1. ハンサムのポルナレフは突如反撃のアイデアがひらめく
2. 仲間がきて助けてくれる
3. かわせない。現実は非情である。

別の可能性としては、「超えられない苦難もある/世の中は超えられない苦難ばかり」のような現実の非情さを見せ付けられるような話は、特に苦難真っ只中の人にとっては受け入れがたいから、と言うものがあります。どう解決して良いか毛頭分からないような状態にある人にとっては「苦難は必ず超えられる」と考えていた方がまだ光が見えます。そう言った現実から目を逸らすための言葉として受け入れられてきたのかもしれません。

この類の言葉は自分を納得させるための言葉という性質が強いです。そのため、そう言った言葉をを苦難の中にいる他人にかける場合には、前述した処世術の話ではないですが、当人がその言葉をかけられる事を望んでいるのかどうかを注意深く観察しないと、これ以上頑張れない人に頑張れと言うのと似たような残酷さが発生してしまいます。

自分自身を納得させるために使うのであれば良いのですが、他人に対して使う場合には、その辺りにも十分気を付けた方が良いなと感じました。