投票率の世代間論争に関する個人的な立ち位置

参院選も無事終了しました。参院選投票率 は 52.61% 辺りと言う事で、皆様いろいろ思う所があるとは思いますが、個人的には、事前調査 等を考慮すると 50% を切るかもと言う予想も囁かれる中で意外に健闘したのではないかなぁと言う印象を持ちました。

このブログでは、私が知識不足な事もあり政治的な話題には触れないようにしているのですが、投票率(特に、世代間投票率の差)に関する議論は興味を持ち継続的に追っているので、いくつか記事にしています。

ただ、データに関する考察と私自身の主張を混ぜて書いている事もあってか、私自身の主張とは正反対の性質の記事*1 に反対意見と言う形でもなく引用されていて少し寂しく思う事があるので、一度、私自身の主張と言うか立ち位置のみを記載しておこうかと思います。

投票率(および、それに関わる議論)に関する私の主張としては、以下の 2 点です。

  1. 投票率が増減する要因として、ほぼ各人の政治的関心しか考慮しない(それを原因として批判・糾弾する)のは危険である
  2. 特定の層(今回は、「若者」)に対して「投票率が低いから政策的に冷遇されるのも仕方ない」と言う論法を適用するのは、別の対立軸に対しても容易に適用され得るので危険である

前者に関しては、先に挙げた 2 つの記事中で就職氷河期に当たる世代の投票率の推移に着目し、社会的な構造の変化*2に伴って、「政治的関心はあまりないが様々なしがらみ、プレッシャが存在するため投票すると言った層が少なくなっているのではないか、そして、それが上世代との投票率との差に繋がっているのではないか」と言う仮説を立てて検証を行っています。

最初から政治に対して強い関心や信念を抱いている人は別として、「投票は行っても行かなくてもどっちでもいい」程度の気持ちな人も多いだろうと予想されます。一方で、社会一般的には「投票は行くべきものである」と言う強い規範意識が存在します。

…(中略)…

そう言った状況で、例えば上司辺りから、「選挙には行けよ」みたいな事を言われた場合、「後でうるさく言われないためにも行くだけ行っておくか」みたいな損得勘定が働いて投票する事も考えられます。これだけだと印象が悪いですが、最初は気乗りせずに嫌々行っただけであっても、そのうちに投票行為が習慣化する事もあり得るため、こう言ったきっかけは重要であると言えます。

一方で、就職氷河期以降の世代は、雇用形態の関係(あるいは、そもそも職に就けない等)から、これまでよりも企業・地域社会と繋がりが薄い事も多く、そう言った「うるさく言ってくる世話焼きの人」もあまり存在しません。その結果、投票に行くかどうかは(それまでの世代よりも)己の信念・良心に強く依存すると言う事になります。

「己の信念・良心に強く依存する」と書くと何か恰好良いですが、こう言った状況だと、(外的要因によって投票率が底上げされる可能性のある)それまでの世代と単純な投票率だけで争っても勝ち目がない事は目に見えているので、そう言った意味で、個人的には投票云々については「投票に行くよう呼びかけると言う行為自体は良いと思うが、投票率が低いから若者は軽視されて当然だ的な論調には(無理ゲーを押しつけられている気がして)賛同できない」と言う意見です。

若年層の投票率に関する雑感 - Life like a clown

後者に関しては、投票率の対立軸に関する議論としては(公開されているデータがそれしかない事もあってか)「世代間対立」がクローズアップされる事が多いですが、実際には、「経営者層と労働者層(雇用者層と被雇用者層)」や「富裕層と貧困層」と言った年齢とは別の対立軸が問題になる事もしばしば存在します。個人的には、「投票率が低いなら冷遇されても仕方ない」と言う風潮を有権者側が安易に認めてしまうと、別の対立軸にも同じ論法を適用されてしまうと言う危険性を強く感じているため、こう言った論調には否定的な立場を取っています。

社会学者のマックス・ウェーバーは、支配する力(権力)を、4つに分類した。

  • 自発的服従
  • 説得による支配
  • 威嚇による支配
  • 暴力による支配

選挙によって選ばれた支配者による支配は、「説得による支配」である。「みんなが選んだ人だから」という単純だが強力な説得力をもつ理由によって、大衆を支配できるのである。

これはある意味で「暴力による支配」よりも恐ろしい。なまじ説得力があるだけに、大衆は反抗できにくい。かつて青島都知事が、「みんなが私を選んだのだから、私の公約である『都市博の中止』は実行して当然」と言い、実際に都市博は中止になった。その結果の良し悪しは置いといて、「みんなが選んだ」という事実に基づいた支配は、説得力があるだけに、大衆は逆らいにくいのである。

等しく選挙権が与えられている本当の理由

良い事ばかりではない政策*3を決定する際には、支配者(政権)側はそれを行うための「言い訳」を探します。その「言い訳」になりそうなものを有権者側が安易に提供するのは危険であるように思います

投票行為を「個人の損得問題」として語っているものをたまに見かけますが(投票すると自分の層が優遇されて得、投票しないと冷遇されて損)、損得問題として語るのであれば、上記のような風潮を安易に認めてしまう事自体が損である、とも思います。

投票率が上がると言うこと

最後に、蛇足的になりますが今回の参院選において印象的な事が起こったので記載しておきます。

今回の参院選は、山本太郎氏と言う(誹謗中傷とも取られかねない)過激な言動を繰り返している候補者が当選し、その結果、当選した東京都の有権者を非難するようなコメントが多数投稿されています。

私がフォローしているユーザが偏ってるだけかもしれませんが、Twitter の自分のタイムライン上でも、開票前までは「投票率低すぎ」、「白票でも何でもいいから投票に行こう」と言った呟きが数多く流れていたにも関わらず、山本太郎氏の当確のニュースが流れた途端に「東京都民は馬鹿」と言った投票に行った人を非難するような呟きが多数を占めるようになってしまって、率直な感想として不快でした。


残念ながら今回は投票率が上がりませんでしたし、個人的にも当選した山本太郎氏を支持する気にもなれないのですが、山本太郎氏の当選は、投票に関する若者への啓蒙時によく言われる「投票率が上がって予想外の人が当選するようになれば、政権に対しても大きなプレッシャーになる」と言う事を象徴している事例のように感じます。しかし、今回の事例では同時に、その「プレッシャー(場合によっては不利益)」は政権だけでなく有権者 にも同様に返ってくると言う事実を再確認させられる事となりました。

投票率が上がる事によって発生する不利益についても多くの検討記事が存在しますが、近年は投票率の低下を受けてか、そう言った記事に注目が集まる事はあまりありませんでした(投票率が上がる事は無条件で善である、と言う立場で書かれる記事が多かった)。しかし、個別の事例に目を向けると「投票した有権者を非難する事例」と言うのは度々目にします。例えば、民主党政権時は、主に 2ch まとめブログ界隈で民主党を選んだ有権者を馬鹿にするようなコメントが目につきました。

投票率を上げるべきだと主張する際には、自分にとって想定外の候補者が当選すると言う事実を受け入れる(投票した有権者を非難しない)覚悟があるのかを一度問い直してみる必要があるように思います。今回のように「何でもいいから投票に行けと言っていたかと思ったら、あんな候補者に投票するなんて馬鹿だと言われた」と言った事例が続くと、あまり政治的関心のない有権者へ不信感を与えて距離を置かれるようになり、最悪の場合、投票に行かなくなる*4事も考えられます。

*1:「若者の投票率が低いのは許せない」、「若者冷遇の政策が行わるのも仕方ない」等

*2:非正規雇用の増加等に従って特定の企業や組織に属する人の割合が減少

*3:国民に負担を強いるもの、特定の層への優遇政策等

*4:投票先によって激しく非難されたりする事が起こり得るため。